着陸時の姿勢状況を瞬時に特定。Grafanaが支えた月面探査の意思決定

着陸時の姿勢状況を瞬時に特定。Grafanaが支えた月面探査の意思決定

2026-04-011 min
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国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)の小型月着陸実証機「SLIM」プロジェクトでは、既存の監視システムにおける表現力の不足が大きな制約となっていた。機能追加や改修に際してはコア部分から手を入れる必要があり、相応の工数と期間を要する構造であったためである。こうした状況を踏まえ、SLIMチームは衛星データとIoTデータに存在する構造的な共通点に着目し、柔軟な可視化と迅速な改善サイクルを実現できる「Grafana」の採用を決断した。

その結果、数千項目に及ぶテレメトリデータの中から必要な情報を瞬時に抽出できるダッシュボードが短期間で構築され、月面着陸時の判断支援能力は大幅に向上した。さらに、世界中の視聴者へ向けたリアルタイム配信にも寄与し、歴史的なピンポイント着陸を運用の側面から支える基盤となった。可視化技術の刷新がどのようにミッション成功へ結びついたのか。今回は、導入を主導したJAXA 宇宙科学研究所の中平聡志氏と、研究開発部門の横田健太朗氏に話を伺った。

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月面着陸という極限のミッションに立ちはだかった「可視化」の壁

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JAXAが推進する小型月着陸実証機「SLIM(Smart Lander for Investigating Moon)」プロジェクトは、日本の宇宙探査における技術的転換点である。従来の「降りやすい場所への着陸」から、「降りたい場所に正確に降りる」ピンポイント着陸へと発想を大きく転換し、着陸精度を目標地点から100メートル以内に抑えることが求められた。加えて、探査システムの軽量化を通じて、将来的な高頻度探査の実現を目指すという点でも重要な試みであった。

この高難度ミッションを支える運用監視の現場で課題に直面していたのが、JAXA 宇宙科学研究所の中平聡志氏と、研究開発部門で「航法誘導制御系」を担当する横田健太朗氏である。中平氏は科学衛星の運用インフラとデータ利用を、横田氏は探査機の自動運転機能に相当する領域を担っていた。

当時、現場で稼働していたのは長年運用されてきた既存の監視システムであった。信頼性は十分である一方、その構造は一体型で拡張性に乏しく、現代のデータ活用要件に対して柔軟性を欠いていた。

中平氏は当時を次のように述懐する。「処理を追加したくてもコア部分の改修が避けられず、外部に依頼すると実装まで数ヶ月から1年ほどかかってしまいます」

状況変化が激しいミッションにおいて、この長いリードタイムは看過できないリスクだ。また、既存システムは数値やテキスト表示が中心で、時系列グラフを表示するのが限界という制約もあった。

「以前は複数のデータを頭の中で組み合わせて判断していました。しかし、着陸降下の20分間は極めて時間的余裕がなく、大量の情報を瞬時に理解し即座に判断できる環境が不可欠です」(中平氏)

必要とされていたのは、衛星の状態を「正確に把握する」だけではない。「高速に理解する」ことまで含めた可視化基盤である。既存システムを改修するのか、それとも新たなアプローチに踏み出すのか。チームは重要な選択を迫られていた。

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宇宙機のデータは「IoT」と同じ。世界標準のOSSが突破した保守的な壁

既存システムの限界を強く意識していた中平氏が着目したのが、オープンソースの可視化ツール「Grafana」である。ISS搭載の観測装置「MAXI」のデータ可視化で、PostgreSQLと連携し円滑に表示できた経験があり、その柔軟性と拡張性に手応えを得ていたためだ。

中平氏は、宇宙機データの構造が、地上で一般化するIoTデータと本質的に同じである点にも早くから気づいていた。

「宇宙機もIoTも、データの流れは変わりません。バイナリデータが送られ、デコードし、蓄積して表示するだけです。経路や制約は異なっても、『Pushされたデータを溜めて可視化する』という本質は共通です。サーバー温度の監視も衛星のテレメトリ監視も、技術的アプローチは同義だと確信していました」(中平氏)

この技術的確信がSLIMプロジェクトと結びついたのは、SLIMプロジェクトのマネージャー陣の目に留ったのが契機であった。そして、SLIMの自動運転監視について検討していた横田氏が抱えていた「状況を瞬時に把握したい」という要件と、中平氏の持つ技術シーズが一致したのである。

「最初は大まかな相談でしたが、中平さんからGrafanaの提案を受けました。試すほどに可能性が広がり、現場からも『こんな表示が欲しい』と次々に要望が上がりました。機能は自然と拡張していきました」(横田氏)

もっとも、宇宙開発の現場では、重要システムへのOSS導入には慎重な意見がつきまとう。「信頼性」「保守性」「セキュリティ」を懸念する声が上がるのは当然である。これに対して中平氏は、理詰めで反論した。

「限られた人数で作り、検証リソースも限られる内製ツールより、世界的に数千万人が利用し、バグが徹底的に洗い出されているOSSの方が安全だと考えていました」(中平氏)

加えて、導入ハードルを下げるための運用戦略も整えられた。Grafanaを既存システムの“補助ツール”として位置づけ、本番運用を止めない二層構造を採用したのである。

「堅牢な既存システムを主軸に据えつつ、Grafanaが万一停止しても運用が継続できるよう訓練しました。信頼性の既存システムと俊敏性のGrafanaを組み合わせたハイブリッド構成です。この形により、心理的な抵抗を最小化しつつ実利を確保できました」(横田氏)

こうして、中平氏が持つ技術的確信と、横田氏の現場視点からの戦略が結びつき、Grafana導入は本格的に動き始めた。開発はアジャイルに進められ、運用しながら画面を磨き込むスタイルが採られることとなった。

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わずか2名で構築した「ゲームチェンジャー」。着陸の瞬間、全世界と管制室をつないだ「共通言語」

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Grafanaを基盤とした可視化システム「テレメスケープ(TlmScape)」の真価は、開発段階から明らかであった。SLIMのようなクリティカルなミッションで利用するための表示システムでありながら、システム設計や構築などのコア開発を担ったのは中平氏と横田氏のわずか2名である。限られた人員で高度な監視基盤を構築できた点は、プロジェクトにおける大きな転換点となった。

特に威力を発揮したのが、Grafanaの「変数(Variables)」機能である。数千項目に及ぶテレメトリデータすべてを表示することは現実的ではない。しかし、中平氏はキーワード(例:「CUR(電流)」)を入力するだけで関連データを抽出し、グラフなどの可視化を自動生成する仕組みを整備した。

「テレメトリの名前空間は構造化されています。『CUR』と入力すれば関連データが一覧化され、チェックを入れるだけで即座にグラフ化されます。既存システムでは手動で探索する必要があった工程が一気に効率化され、我々にとってゲームチェンジャーになりました」(中平氏)

そして迎えた2024年1月20日未明。SLIMは月面への降下を開始し、YouTubeを通じて全世界へライブ配信された。配信画面に表示されていた各種グラフや3Dアニメーションは、まさに彼らが構築したGrafanaダッシュボードであった。

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飛行ラインは、SLIMが実際に計画していた飛行軌道を示しており、赤色の部分は直前の5分間における実際の飛行軌道を表す。(提供:JAXA)

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SLIMが月面に接近し、着陸する様子を確認することが可能だ。(提供:JAXA)

着陸後、Grafanaは決定的な役割を果たす。SLIMは着陸に成功したものの、想定とは異なる姿勢で静止していた。数値のみの監視では判断に時間を要したはずだが、Grafanaでは衛星姿勢が3Dモデルとしてリアルタイムに描画されていた。

「画面を見た瞬間に『この姿勢だ』と把握できました。姿勢データに電源情報や重力データを組み合わせると、全体の整合性が即座に理解できたのです。数値を頭の中で変換する作業が不要になり、事実へダイレクトに到達できました」(横田氏)

この“直感的理解”は、専門領域の異なるメンバー間の連携も加速させた。

「専門外の私でも、画面を見ればバッテリー残量などが一目で理解できます。Grafanaがエンジニア間をつなぐ共通言語となり、チーム全体で情報を即時に共有し、意思決定のスピードが格段に上がりました」(横田氏)

バックアップとして既存システムも稼働していたが、本番運用の現場では多くの管制室メンバーがGrafanaの画面に注目していたという。信頼性が厳格に求められる宇宙探査の最前線において、Grafanaはその実力を遺憾なく示したのである。

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SLIM月着陸1分前のサブ管制室の様子。(提供:JAXA)

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SLIM月着陸1分前のメイン管制室の様子。(提供:JAXA)

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「テレメスケープ」を新たな標準へ。可視化を超えたソリューション活用も視野に

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SLIMで成果を挙げた可視化基盤「テレメスケープ(TlmScape)」は、現在宇宙科学研究所を中心として新たな展開段階に入りつつある。運用効率化という枠を超え、標準装備としての定着を目指す動きが進んでいる。

「今秋以降に立ち上がる新規プロジェクトでは、従来システムに加えてテレメスケープの利用を推奨しています。『ローバーのカメラ画像を瞬時に確認したい』といった具体的な相談も寄せられており、活用範囲はさらに広がる見込みです」(中平氏)

さらに、宇宙機運用の現場利用を目的に開発したプラグインは、JAXA内部での活用にとどまらず、オープンソースとして一般公開している。教育用途での展開や、民間宇宙開発企業をはじめとする外部コミュニティへの還元も進行中だ。Grafanaを中核としたOSS活用の裾野は、今まさに広がりを見せている。

議論はさらに、ログ管理やインシデント管理といった他分野のソリューション活用にも及んだ。

「Webサーバー管理ではログ管理ツール『Loki』やデータ収集基盤『Grafana Alloy』を使っています。特に関心があるのはインシデント管理機能です。SLIMは短期決戦でしたが、衛星運用は10年規模の長期戦になります。常時監視が現実的でない中、『問題が発生した際に通知してくれる仕組み』は確実に導入余地があります」(中平氏)

こうした取り組みを経て、JAXAのGrafana活用は「可視化ツール」の域を超え、運用の効率化・自動化を見据えた包括的なプラットフォーム活用へと進化し始めている。

最後に、導入を検討しているエンジニアに向け、二人は次のように語る。

「幅広い用途に対応できるツールなので、データ確認に苦労している現場なら、自動化や効率化で業務負荷を大きく軽減できるはずです」(中平氏)

「私自身、情報系ツールに詳しいほうではありませんが、Grafanaは直感的に扱えました。専門家でなくても使えるわかりやすさは、多くの現場で強い武器になると思います」(横田氏)

月面探査という極限環境で実証された“可視化の力”は、宇宙開発のみならず、地上のビジネスや技術開発においても、不確実性と向き合うための有効な指針となるだろう。

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